創り手、造り手、作り手、つくり手…「つくりて」と入力すると出てくる変換候補はこんなものかな。
「違いが分かる事典」chigai-allguide.comによると
作るは、「料理を作る」「棚を作る」など、比較的小さなものや、「行列を作る」「社会を作る」「記録を作る」など、無形のもの抽象的なものに用い、造るは、「船を造る」「庭園を造る」など、有形の比較的大きなものに、創るは、「芸術作品を創る」「新しい雑誌を創る」など、新しいものが対象で、新しいものであれば有形無形を問わず用いられる。
ただし、常用漢字表では「創」に「つくる」の訓がないため、公用文では「創る」と書かず、「作る」か「造る」と書く。…のだそうだ。
建設業である弊社の場合、と云うか現場人は
感覚的な所からいつも「創る」「創り手」と表現させてもらっているが、新しいものが対象という所ではあながち間違っていなかった様だ。
冒頭から何やら国語の勉強になってしまったが、現場人が気にしているところは言葉の意味ではなくて、その「つくる」という仕事から発生する責任をどの様に担っていくかという所だ。全ての職業が皆何かを「つくって」対価を得ているわけだが、その対価の大小に関わらず単に「つくって」終わりなものはこの世には無く、法的なものは勿論、そうでなくても「つくり手」は必ず少なからず責任を負っていかなければならないと現場人は思う。しかしながら昔も今も形を変え品を変えてはこのあたりが蔑ろ…というか鼻からそんなことを気にしていない輩が存在しているのが残念でならない。
現実に弊社としても現場人としてもこのような奴らには多数出会ってしまってきた。それでも中には現場人に言わせると「間違って」一見飛躍しているように見える所もあるのが、仮想現実の横行する今の時代の怖いところだ
つくり手たるもの、どんなものでも目の前に自分がつくった形がある以上、有償無償を問わず責任を持って最後まで見届ける。
そんなところから
本当の技術革新は生まれるし、
本当の交流も始まるのだから…と思う。